“ありがとう„ の反対語から気付く、人生の奇跡。

“ありがとう„ の反対語から気付く、人生の奇跡。

画像 ‟ありがとう„ の反対語から気付く、人生の奇跡。

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感謝は人の心を開き、運命を開く。(本田健)

小学校低学年までは、私は超無口だった。ところが高学年になると、クラスメイトとお喋りし過ぎて先生から注意を受けるほどになった。急激にではないが、徐々に私は自分を変えていったのだ。その原動力となったのが、その頃流行っていたTBSのテレビドラマ『ありがとう』ではないかと推測する。

 

しっかり者の母と、お転婆娘の何気ない日常。そして娘の恋愛。彼女らを取り巻く、個性豊かなご近所さんも相まって、にぎやかで、時々ほろっと来るようなドラマが展開するのだ。第1シリーズの婦人警官編、第2シリーズの看護師編、第3シリーズの魚屋編、第4シリーズのカレー屋編と、1970年から1975年までシリーズは続いた。私は、放送日である毎週木曜日が来るのを心待ちにしていた。本当に。苦手な鉄棒も笛のテストも、全部『ありがとう』で乗り越えたと言っても過言ではない。今どき(テレビに救われた)と思う人はどれくらいいるのだろうか。シリーズ最高視聴率は、民放ドラマ史上最高の56.3%を記録した『ありがとう』。視聴率を2桁台に乗せるのが至難の業と言われる昨今とその頃とでは、「テレビ」を見る側、創る側の熱量が違うのだろう。

 

『ありがとう』の中では、沢山の生き生きした会話が飛び交う。その小気味よい言葉のジャブの応酬に、私は子ども心にも(よく喋る大人たちだなぁ)と半ば呆れたものだった。だが、年を重ねるにつれ、その小気味よい会話をしてみたいと思うようになっていった。ドラマの登場人物の中の、お気に入りの人物が言いそうなことを想定しながら、ドラマを見るのが大好きになった。大袈裟に言うと、私は対人関係における要点のようなものを『ありがとう』から会得した。そんな気さえする。

 
 

お節介こそ人間が生きていることの保証である。(梅崎春生)

『ありがとう』は、ホームドラマ全盛期の1970年代を代表するテレビドラマである。従って、BSデジタル放送で未だによく再放送されている。大人になってから見てもやはり名作は名作。結末は分かっているのに、やはり泣けてくる。しかし、(お節介な人ばかり出てくるなぁ)と新たな感想も持つようになった。そう、みんな驚くほどお節介なのだ。皆さんは、お節介という言葉を聞いて、いいイメージを持たれるだろうか? それとも悪印象? 私は、どちらかと言うと後者の方だ。(お節介な人には関わり合いたくない。)しかしよく考えてみると、人と人との関係性が希薄な世界はもっと嫌だ。きっと寂しくて耐えられない。

 

人間関係において、自分が相手にしてほしいと思っていることは、まず自分から率先して行う。そうすると、周りが親切なお節介をどんどん貴方に焼く様になる。自分から動こう。他人は貴方が羨むほど幸せでもないし、貴方が思っているほど強くもない。それが解るのが大人になる一歩なのかもしれない。平たく言えば、他人様は貴方以上に大変なのだ。そういう他人に対する想像力が働くか否かが、大人になったかならないかの境界線なのではなかろうか。

 
 

人の生き方には二種類しかない。1つは奇跡など起こらないだろうと思う生き方、もう1つは、奇跡は、必ず訪れると思う生き方(デール・カーネギー)

RPGオンラインゲーム『MILU』のユーザーさんは、一般に考えられている、ゲーム愛好家よりも年齢が若干高めである。その分、アバターの向こうにいる生身の人間に対する配慮には事欠かないのではないだろうか? それがひいては、『MILU』のあのまったりとした空気感に繋がっているのではなかろうか?
 
 
ありがとうとは感謝を表す言葉。少し使い古された感は免れないかもしれない。では、その反対語は何だろう? 「当たり前」である。この反対語がすぐに浮かんだ人はそう多くはないと思う。私達の身の周りの当たり前のことは、全て当たり前ではなく、奇跡なのだ。だから「ありがとう」は、全ての物事に感謝しながら生きていこうと問う言葉なのだ。ゲーム内で知り合いになり、ミル友になり、色々なことをチャットで話し合えるのも奇跡。そう、奇跡! そしてその奇跡を慈しみ育てていくのが大人ユーザーのたしなみなのだ。
 
 

Writer:ひねもす

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