https://pixabay.com/
4年程前の私は、睡眠リズムを整えることに苦労していた。せめて眠れぬ時間を運動に使おうと、 “夜の街” を散歩する日が多かったことを覚えている。普段はひとりで静かな住宅街を歩いていたのだが、ある日、思いきって変則的な行動を取ることに。たまには飲み屋が密集している地域を歩いてみようと、ウキウキしながら歩を進めた。しかしそこで私が目の当たりにしたシーンは、とても残酷だったのだ。
その飲み屋街の様子は、穏やかな昼とは一変して罵声の飛び交う場所となっていた。詳細は聴き取れなかったのだが、むき出しの感情を含んでいる声が胸をざわつかせる。酒に酔った大人が喧嘩しているのだから、相手に対しての「思いやり」が欠如している。そんな場面に遭遇して、私は拒絶感と恐怖感を抑えきれず、そこから足早に立ち去った。
きっと理性を取り戻すまで、あの大人達は言い争いを続けるのだろう。或いは相手が倒れるまで。相手から対立の気持ちが消え失せるまで……。そしてこの夜の街で見たシーンは、以前に親戚が造った「狭いミント畑」での失敗を、私に思い出させた。
〝酒に酔った人間と “ミント” の共通点なんてあるのか〟と思う方もいるだろう。だが想像してみてほしい。限られた空間の中に、相手への情けを持たぬ者同士が密集したらどうなるか……と。前述の狭いミント畑ではやはり、排他的な現象が起きる。ミントが根や地下茎(ちかけい)を拡げて繁茂して、他の草花が生きる空間を殆ど占拠してしまう。
酔っぱらって理性を失い、無差別に攻撃的な態度を取る大人達の姿は、自分のためだけに根を拡げるミントと似ている。人間も理性を失えばミントと同類かも知れない。それに加えて、理性を保っていたとしても無意識に人を傷つけているのかも知れない。その状態を “ミントのジレンマ” と私は呼称している。
〝生命力(または主張や欲)の強さのあまりに、他者に迷惑をかけてしまうことがある〟これは決して競争社会等を批判している訳ではなく、勿論ミント等の植物を悪く言うつもりもない。ただ私たち人間は気付かぬうちに、ミントのジレンマに心を囚われてはいないだろうか。
ミント畑の失敗と同様に、狭い場所に人間が大勢集められて密集している状況を想像して欲しい。恒久的に平和で、穏やかに過ごせるだろうか。ひとつの例としては学校のクラスだ。そこで起きるイジメが陰惨であることは、想像に難くない。インターネットの世界の中で例を挙げると、ひとつのコミュニティ内での不毛な対立や、自分勝手な行いによる他者への迷惑。これらが思い浮かぶ。
ミントなら広くて仕切りのある場所に植えれば、生存競争を起こさずに済んだのだろう。では私たち人間が排他的な現象を回避するには、一体どうしたら良いのだろうか。その答えは、意外とシンプルだと私は予想する。
人間とミントにマイナスの共通点があるとしても、私は絶対に悲観しない。なぜならば、ミントなどの強い植物が他の草花に生息の場を与えないのは、生態がその様にできているから。生きる為に一所懸命な進化の過程で得た特性上、仕方のないことなのだ。それに対して人間は、己の行動を決める際に心を基準にしている。すると、次の様なことが言えるのではないだろうか。
あなたが目の前の他者に向かってどの様な言動を取るか、すべてあなたの意志で決めることができる。苦しい状況であれば譲り合うこともできるだろう。貧しい時なら分け合うことも、助け合うこともできる。悲しみや喜びだって分かち合えるかも知れない。
◇ ◇ ◇
人間には長い歴史を通して育んできた “心” がある。その心から発生している、他者を思いやる言動というものは、これからのネット社会に重要な役割を果たすのではないだろうか。少なくとも、私が日頃から元気を貰っている3Dコミュニティゲーム『MILU』には “思いやり” を自然に行なっているメンバー様が大勢いると感じている。助け合っては分かち合い、いつの間にか「ありがとう」と言葉を発する。この『MILU』の世界はミントのジレンマを見事に断ち切って、人間の良い面を具体的に表してくれていると思う。これからも『MILU』を通して思いやりをシェアしていけるよう、努めていきたいものだ。
投稿者:薪ストーブ設計マン