https://pixabay.com/
“チョコレート” が大好きだ。『最後の晩餐』で何を食べたいかと聞かれたら、迷わず熊本県庁近くの“アンジェミチコ(Ange Michiko)の板チョコレート„ と答えるだろう。年中室温が20度以下に設定された店内。そこはまさしくチョコレート・ファーストな空間が広がる。女主人の趣味と思われるシャンソンが流れる中、チョコを買い求めるのだが、その主役のチョコレートは、どれも個性際立つ曲者揃いだ。カカオ本来の特徴を活かした、野性味溢れるその味を知ったら最後、虜になってしまう。私の場合、週1の割合で通った。人生の最後に口にするものは、心情的には母の作る「絶品きんぴら」と言いたいところなのだが、チョコレートの誘惑には喜んで屈する。
私は、小学校に上がる頃までかなり偏食だった。その頃の私の主食は、饅頭・チョコレート・胡瓜。なんともへんてこりんな、この三種の神器(?)だけで食い繋いでいた。中でもチョコレートに対する思い入れの深さは尋常ではなかった。子どもの頃に使っていたボロボロの毛布が無いと眠れない、という話をたまに聞くが、それと似た様な関係である。(チョコレートが無いと生きていけない……)。当時は、真剣にそう思っていた。
忘れもしない小学校低学年の時「大事件」が起きた。私がほぼ毎日買っていたチョコレートが、実質3倍に値上がりしたのだ。(政治家は何をやってるんだ!)と腹の底で叫んだ。恐らく最初で最後、私が政治に興味を持てた瞬間であったと思う。それを機に、私は緩やかに他のお菓子にも目を向けるようになっていった。
思春期。私はチョコレートと絶縁関係になってしまった。理由は単純明快で《チョコレートを食べ過ぎるとニキビが出来やすくなる》という説を鵜呑みにしてしまったからだ。思春期の私は、今思い出しても悲しくなる程ニキビが出来た。《水を飲んでも太る》とはよく聞く言い回しだが、私の場合《水を飲んでも(ニキビが)出来る》がピッタリな状況だった。
自分が他人にどう思われているか。思春期の頃、私の興味はその一点に集中していた。(チョコレートが大好きだから、あんなにニキビが出来るのだ)と、他人に思われたくない。その一心で、私は「チョコレートが嫌いな人」を演じた。中学生の頃から30歳位までその演技は続いた。
30過ぎた頃には、流石にニキビも治まってきた。と同時に、それまでの分を取り戻すかのようにチョコレートにハマっていった。
折しも世は “高カカオ” チョコレートブーム。カカオに多く含まれる「カカオポリフェノール」は、ストレスを「低下」させるのに効果的であることが、最近の研究結果により明らかになっている。勿論、適量(1日25g程度)を意識しながらの摂取が肝要だろう。
そして、私は最近「チョコレート依存症」という言葉を知った。チョコレートを食べると、セロトニン(人が幸せを感じている時に、体内で分泌されるホルモン)が分泌され、一時的に大きな満足感を味わえる。しかし、その満足感はすぐに消え去り、不安やイライラの感情が強くなり、またチョコレートに手を出してしまうという悪循環に陥ってしまうのだ。これを称して「チョコレート依存症」というらしい。
“依存” という言葉を聞くと、胸がざわつく。まさしく私の生活全般を言い当てられているような気になってしまう。辞書を見ると、大抵依存の反対語は “自立” となっている。そう、自立してない私。でも、何を持って自立って云うのだろう。一般的には、経済面において、親のスネをかじらなくても生きていける状態を指す事が多いように思う。でも、本当にそれが自立なのだろうか?
もっと精神的な面から、依存、そして自立の実情を掴みたい。福沢諭吉の言葉に、次のような言葉がある。“自立の心なき者は、必ず人に頼る。人に頼る者は、必ず人を恐れる。人を恐れる者は、必ず人にへつらう„ 私が常に陥ってしまうのが(人が誉めてくれるのが嬉しい。)からと言って、常に他者の顔色を伺ってしまう行動癖。ということは、自分の幸不幸が他者によって決まることになる。それじゃあ、生きている甲斐がない。自分を生きていることになりはしない。
とは言え、依存せずに孤立して生きるのは寂しい。適量を摂れば妙薬、食べ過ぎれば依存症の悪循環……というチョコレートと同様、他者との距離も “付かず離れず” を心掛けるのがいいだろう。勿論、他者との適正な距離を保つためには、自分自身がフラフラせずに、しゃんと立っていることが最も大切である。片意地を張らずに頼るべき時は他者を頼り、でも自分をきちんと持って暮らしていきたいものだ。
Writer:ひねもす