私の職場の隣には『コンビニ』が在る。入社して5ヶ月。最初のうちは、意識して入らないように努めた。コンビニが好きで好きでたまらないから、ヘビーユーザーになって小銭を失うのを避けようと思ったのだ。
だがその努力は3ヶ月で崩壊。今やほぼ毎日、である。お菓子コーナーが大好きなのだが、流石に毎日見ていると飽きが来て、次第に「コンビニの変化」に視点が向くようになった。かつて、若者文化の代名詞と云われていたコンビニは、今や超高齢化社会に即応して、いわゆる大人世代にシフトチェンジしている。人間社会の変化に応じて変わらなければ、現代人にとって本当にコンビニエントな存在には成り得ないだろう。
例えば、宅配サービス。大人世代には、まさに痒いところに手が届いているサービスと云えよう。また、あらゆる処理手続きの窓口機能の拡充も着実に進んでいる。他にも、公共料金の支払い、宅配荷物の受取と預かり、バス・航空券・コンサートチケットの購入、税金の支払い、郵便ポスト、収納代行、宝くじなどの購入、住民票取次などの行政関連サービスなど、足腰に少し自信のなくなった大人世代の行動を網羅した窓口サービスが目白押しだ。
これだけ至る所に点在していて、お年寄りから子どもまで、あらゆる年齢層が気軽に訪れる場所。コンビニをそういう場所と位置付けると、なんだか公民館と機能が被っている気がする。
私が身体を悪くした頃 ―― 20年位前だが ――、コンビニはいわゆるコミュニティ機能を十分には発揮していなかったと思う。突然、身体に異変を起こした私は、自分の居場所のひとつである職場を失った。ひとつ失ったら、ひとつ新規の場所を見つけなきゃ。病気になったくらいでは居場所の欲求は無くならない。無くなるどころか、家しか居場所が無くなって、社会との接点が無くなっていくことを私は恐れた。そこで私が出掛けたところと言えば、役所・ハローワーク等、公共機関ばかり。そのころの私には、コンビニという閃きはなかった。コンビニはイートインスペースの無い、「買う」為だけの場所だった。
現在のコンビニは時代の趨勢と共に、より公共性を帯びるようになってきている。子どもの安全見守り隊への積極的な関わり、ATMやトイレを利用するのは街のごく自然な風景になっている。
20年前の当時、私は自分史上最大のピンチに陥った。しかし案外冷静な所もあって、如何にして自分が立ち直るのか、しっかり覚えておこうと思っていた。私の場合に限るが、結論として、他人と話すのが一番自分を保つのに役立ったと思う。話の内容など何でもいい。他者に向けて話をするという事が大事なわけで。他者と話をするという事は、一旦、自分を客観視する作業を伴い、そのことで内向きになり過ぎた感情を矯正する事が出来る。
これだけ公共性を帯びた存在になったコンビニ。次に求められるのは、営業目的の邪魔にならぬ範囲で「コミュニケーション」の場という意識を強く持つことではなかろうか。先日、コンビニでいつもの「ロイヤルミルクティ」を頼んだ。と、新人らしいその店員さんは明らかに動揺した風だ。顔と名札からして外国人だろうか? ドタバタする間に、彼女は、私の対応を他の店員さんに頼んで、引っ込んでしまった。
数日後、また「ロイヤルミルクティ」を注文した。またも、あの店員さんだった。しかし状況は劇的に変化した。彼女はテキパキと業務をこなし、「イツモゴリヨウアリガトウゴザイマス」の言葉に、少し恥ずかしげに、しかし誇らしげな笑みを添えての完璧な接客をやってのけた。ひとりの若者の成長過程の一部始終を、コンビニという舞台で観察できた感がある。
こういうプラスアルファな出来事が、これからのコンビニに溢れているといいなと思う。コンビニに限らず、何でもそうだが、「人間ファースト」な空間が街に溢れていると嬉しい。