小学校時代のあだ名は「ミイラ」だった。見たままを名付けられたのだと思う。そういったわけで、「ダイエット」は殆ど経験がない。それでもミドルエイジに差し掛かった頃から、身体のアチコチにムダ肉が付いてきた。ずっと前にテレビで、二十歳の頃の体重を維持するのが理想的という説を聞き、以来それを信じ、気にしている。気にはしているが、何もしない。大袈裟に言うと、何もしない事が私の美学なのだ。
だが改めて考えてみると、私は食べることに関して、幾つかの「決めごと」を設けている。まず、私はお菓子が大好きなのだが、甘いお菓子しか買わないと決めている。勿論、ポテトチップスやおせんべい等の辛いお菓子も好きなのだが、歯止めを掛けておかないと、主食を食べなくなる自分が想像できて怖いからだ。あと、食べる順番はまず野菜から食べている。数年前に、「食べる順番ダイエット」の存在を知った。
曰く、①野菜類 → ②タンパク質 → ③炭水化物、の順に食べるのが、最も太らない食べ方だそうだ。私が野菜から食べるのは、私は苦手なものから食べる習性があり、つまりは野菜嫌いのお子様なのだ。しかし、このお子様的食べ方は、「食べ順ダイエット」に関しては功を奏しているようだ。
ここまで書いてきて、“ダイエットはやってない”と言いながら、結構食べ方とか気にしている! と、自分に突っ込みを入れてしまった。そもそも「ダイエット」の意味は、「減量」とイコールなのだろうか? 答えは、NOであった。ダイエットとは、ギリシャ語で生活様式や生き方を表す「dieta」を語源とする説が有力である。つまり、ダイエットの元々の意味は、単に見た目の美醜を問う言葉ではなく、もっと精神的な規律を問う言葉だと云えよう。
だったら、“私はダイエットしています”と声を大にして言わなければならない。確かに、食べることは生きることと、ほぼイコールと云っていい程人生における一大事だと思う。だが食べる事がメインの人生は嫌だ。
勿論、自分の健康を守るために「食」に真摯に向き合う人や、食に関する仕事に就いている人、愛する人の健康を守るために日夜献立に頭を悩ませている人など、「食に纏わる事で奮闘している人」の人生には共感を覚える。対して、食べることを痩せるか太るかの二者択一的にしか見ようとしない、現代の貧困な発想には違和感を覚える。
手前味噌で申し訳ないのだが、先述の「食に纏わる事で奮闘している人」とは、私の母と妹のことである。母は、透析をしていて食事制限の多い父の料理を朝昼晩、愚痴をバンバンこぼしながらも、毎日作り続けている。
妹は、料理研究家。とかく薄味で味気なくなりがちな透析患者食を、工夫によって美味しくし、患者さんに食べる楽しみを取り戻してもらおうと日夜研究している。彼女自身も透析患者なので、取り組み方の熱意は傍で見ていても並々ならぬものが感じられる。
illust by/めれじ
折角、世の中に浸透しているダイエットという言葉に、減量という意味だけでなく新たな意味付けをしてみたい。例えば、「愛」なんてどうだろう? 痩せて綺麗になりたいのは、あの人の愛が欲しいからかもしれないし、スマートになって流行の服を着こなしたいと願うのは、自己愛からかもしれない。愛という言葉の持つ前向きな意味合いの力を借りて、ダイエットという言葉をもっと明るく深い意味で使いたいものだ。
Wrier ひねもす