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20代後半の頃、「占い」を習っていた時期がある。人に占ってもらうより、自分で自分を占った方が当たるのでは? と考えたからだ。それほど、占いは私の日常に入り込んでいた。しかし名誉のために言っておくが、決して占いに振り回されることはなかった。ネガティブな内容は無視し、「良いこと」だけを信じた。関係は良好だったと言えよう。
ところがその関係に隙間風が吹いたのが、今から約20年前。私が大病して倒れたときである。大病したって人生は続く。発症後の大波があらかた引いた頃、私はふと占いの存在を思い出した。だが、私が大病をするであろうと言い当てた占いはひとつもなかった。ひとつも、である。正直、裏切られた気がして、苦笑いが出た。それから数年間、あんなに好きで、雑誌を買ったらいの一番に読んでいた占いのページも、全く見なくなった。
病に倒れて数年後、私はいやが上にも占いと向き合うことになった。ある日、部屋の片付けをしていた妹が、古い手帳を持って私の部屋に飛び込んできた。その手帳は、私が倒れる1年前のもので、妹が指し示したページを見ると、妹が占いに行った時、言われた言葉が書いてあった。「貴方のお姉さんは、体に注意すること」。確かにそう書いてあった。
しかもその占い師はよく当たるからという評判を聞いて、私が妹に紹介した占い師だった。私はメモを取っていないから、はっきりとしたことは言えないが、多分当の本人の私はその占いの内容を聞かされてはいないと思う。
その時、私はこう思った。「良かった。私が信じていた占いというものは、信じるに足るものだったのだ」と。まるで、長く音信不通だった旧友と、旧交を温め合ったかのような安堵感があった。占いのことを「八卦」と云う。当たっても当たらなくても、それが占いだといった意味あいである。でもやはり、しばしタラレバの想像をしてしまった。もしもその占いの内容を私が聞いていてメモしていたら。もしも妹がその内容を私に教えてくれていたら。(もしも……、もしも……)が頭を駆け巡った。だが、もしもは無いことを私は知っている。全ては自分が選び取っている結果なのだ。
大病に倒れ、途方に暮れていた私を、Hさんはしょっちゅう自宅に呼んでくれた。Hさんは、本業はコピーライターなのだが、その当時は頼まれたら占い業もやっていた。「人間は、究極のところ平等だと思う」。それが、Hさんが多くの人を占ってきて辿り着いた真理なのだそうだ。
「Aさんは、パーフェクトに近い強運の持ち主。だけど不詳の息子さんがいて、全然幸せそうじゃない。一方お世辞にも強運とは言えないBさん。でも、自分に与えられた場所で、精一杯自分を活かしきって生きていて、とても幸せそう」。カードゲームの場合も、やはり配られたカードの優劣で、勝負が決まってしまうこともあるだろう。しかしどんなに手持ちのカードが良くても、プレイヤーが下手にプレイすれば、カードは良かったのに負けることも起こりうる。
よく「過去と他人は変えられない。変えられるのは、未来と自分だけ」という言葉を聞く。では、未来とはどうやって決まるのだろう? 当たり前過ぎる答えかもしれないが、目の前にある現在を必死に生きるしかない。私たちは現在しか生きられないのだから。
常に「今」が雌雄を決する瞬間なのである。
Writer:ひねもす