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M先生の声は、全然変わってない。あの頃から何十年も経っているのに。《声は1番最後に老ける》というのは、やはり本当だな。……と、ゴチャゴチャ考えている間に、先生から “水害は大丈夫だったの?„ とストレートな言葉。きっと、連日TVで報道されている絵面を見て、居ても立っても居られなくなって電話をくれたのだと思う。
“心配性になったのよねぇ„ そう言うと、先生は堰を切ったように、自らの近況を語り始めた。今年が金婚式であること。見合い結婚だったけど、今も夫婦仲良しであること。“教え子のM君がすぐ近くに住んでいるのに、なかなか会いに行けない。クラス会をやるたびに幹事を引き受けてくれていたM君が、最近身体を悪くしたらしくって。顔を見に行きたいのだけどね。腰が重くなっちゃって。歳には敵わないわ。今年から後期高齢者なのよ„ ―― 話をしていると、中学校時代の恩師と言うより、心根の優しい親戚のおばちゃんと話しているかのような気安さがあった。
M先生は、中学2年の時の担任教師である。小柄でいつもはつらつとしていていらっしゃった記憶がある。当時、私は国語のT先生のことが本当に好きで好きで堪らなかった。(念のために言っておくが、M先生もT先生も女性である。)私はT先生のことが好きすぎて、国語という教科まで好きになったほどだ。何でそんなに好きだったのか、上手く説明できない。ただひとつ言えるのは、当時やたら繊細でナイーブだった私にとって、T先生の世を達観した感じの物腰は憧れの的だった。
家庭科の調理実習で作った料理も、私はいそいそとT先生に持って行った。(普通、担任に持っていくものだろう?)。私は、自分で自分の行動にツッコミを入れた。この、ほんの些細な出来事をきっかけに、私は自分でM先生に対して、壁を作ってしまった。今なら、若さゆえの尖って歪んだ思考だと思えるが、私はM先生に壁を作ることが、(T先生に忠誠を誓うこととなる)、と信じ実行した。
M先生の思い出をもうひとつ。当時、自主学習したノートを毎日M先生に提出するようになっていた。私はノートを見た目に美しく執ることに傾注した。すると早速M先生からの鋭い指摘が、「通知表」に記載された。〝自分の分かっていることに関して学習している感じがある〟。(どうせ分かりっこない)と思っていた私の「心の怠惰」を、鋭くM先生は指摘した。(あなどれないなぁ。若いけれど、観察眼の優れた人だ)と、私はM先生を更に怖れるようになった。
そして月日は流れ、今から3年前。私にとっては、卒業以来初のクラス会出席だった。何十年ぶりかで再会した級友達のあまりの変わりように驚き、あまりの変わらなさぶりに安堵する。両極端の感慨にゆらゆら耽っていた私の前に、M先生が現れた。
M先生は、大袈裟な物言いではなく、あの頃と1ミリも変わっていなかった。敏捷そうな身のこなしも、人の心をそらさない真っ直ぐな眼差しも。唯一変わっていたのは、過去に、先生が「大病を患った」経験をしたことだろう。数年前に乳癌が見つかり、切除。“重いものは持てなくなった„ そう言って先生は微笑った。
クラス会では、みんなと色んな話をした。中学生当時の話や、近況報告など。自然な流れとして私の病気のことも。でも、ちっとも惨めでもなく、悲しくもなく、嫌じゃなかった。今思うと、それはひとえにM先生のリードが良かったのだと思う。例えるなら、注射の上手な看護師さんに注射を打ってもらった、みたいな。全然痛くなかったのだ。
コミュニティ系RPGオンラインゲーム『MILU』が、10年もの長きに亘ってユーザーさんに親しまれ続けている、その要因のひとつに「バディ制度」があるのではないか。右も左も分からないビギナーさんに、魚の釣り方や採集の仕方、チャットの色んな種類やその違い、パーティーへの参加の仕方等など、バディさんはありとあらゆる『MILU』の楽しみ方を教えてくれる。
そして「卒業」を迎えるレベル20を超えたら、今度は自らがバディの立場として、ビギナーさんを『MILU』の世界へ導くのだ。M先生と教え子だった私との関係が、病を抱えてしまった「大人ふたり」、に変化したように。ゲームの世界でも、長く続けていると関係性が変わることがある。それはそれで楽しい。人と人との繋がりは、時に面倒で厄介なものだ。でも、面倒なことの先にある楽しみは、簡単に手に入るそれよりも、長く楽しみが続く気がしてならない。
Writer:ひねもす