この世は生きるに値するだろうか……
信頼すべき人たちに裏切られるという理不尽な目に遭い、ずいぶんと長い間暗い深淵の底でもがき苦しんでいました。 終わらない日常という絶望の涯で感じたのが前述の言葉です。
それでも正気を失わなかったのは、頭の隅っこで微かにささやく内なる声に耳を傾けたからかもしれません。
それは「もしかしたら苦しみにも何か意味があるのかもしれない」という気づきです。
その言葉の発する輝きは微かでも、その時の自分にとって無視するには眩しすぎました。
そのきっかけになったのは、藁をもつかむ思いで「なんでこんな目に遭ったのか?」その答えを探していた時に、「信頼の対象を外に求めると、それを内側に戻すようなことが起こる」という、以前読んだ本の一節が思い出されたことです。たしかに自分のことより家族や友人を優先し、彼らを思うことで空虚な心が満たされ、仕事のモチベーションが上がりました。
しかしそれは自分をないがしろにすることだったのかもしれない、もっと自分を大事にしなさいということに気づかせるために、信頼していた人に裏切られるという「躓(つまず)き」が用意されていたとしたら? そう考えると腑に落ちました。
それからというもの、電車の中吊り広告や道行く人のTシャツに書かれてある文言まで、何か生きるヒントがあるのではないかと、「言葉探し」をするようになりました。
しかし私は凡人なので言葉の力だけで達観することはできません。一時だけの気休めや慰めはできても、次々と降りかかる苦難を受け容れることはできませんでした。
理不尽なことがまかり通る複雑怪奇な社会では、子供の頃に刷り込まれた正義感や道徳観なんて通用しないし、所詮間違っていたなんて受け容れようがありません。あまりに不条理じゃないかと思います。
では「人はなんのためにこの世に生まれ、なんのために生きるのだろうか?」その問いかけから出会ったのが「過酷なストレスに晒されるほど、魂は飛躍的に成長します」というスピリチュアル系の言葉です。
自分の身に起こった忌まわしい出来事に、初めて肯定的な意味を見出しました。
スピリチュアリズムではこの世は魂の修行場で、あの世(真の人生)と違い食べないと肉体を維持できないという物理的な制限があり、そのために仕事をしてお金を得なければなりません。そうした生きていく過程で直面する人間関係のトラブルなど、様々な苦難やストレスが磨き砂となって魂が磨かれるそうです。川原の石が転がって玉になるように。
何故なら苦しい境遇でなければ、人は真実の幸せに気づけないし、学ぶことができないからです。
そのためにこの世に生きる人は皆、なんの制限もないあの世から、自ら生まれる家庭やカリキュラム(乗り越えるべき苦難)を選び、望んで生まれてくるそうです。
そのことを忘れているので「あ~なんでこんな目に遭うんだ!」「こんな家に生まれなければ……」と嘆くのですが、例えれば、自ら望んで身体を鍛えようとトレーニングジムに行き、マシンで負荷をかけますよね。なのに「あ~キツい!嫌だ!」と、なんとか楽をしようとするようなものと考えれば頷けます。
私は人生の負け組という思いにも苛まれていたのですが、「物質的に豊かになるという価値があるから生きるのではなく、生き抜くことに価値がある。だから経済的な成功がすべてではなく、薬漬けでもホームレスでもいいから生ききることが大事だ」という教えに励まされ、惨めな人生に光が射したかのように、自問しては責めていた日々から解放されました。
「そうか、傷ついた分、人の痛みがわかる人間になれるんだ」「真の愛に目覚めるということは、見返りを考えずに他人を助けることになるので、苦難の多い波乱万丈な人生を送ることになるのか」。
あんなに苦しんだことに意味があり、しかも自分が成長するために望んだことだなんて、こんな考えしたことがなかった。真実かどうかなんてどうでもよく、納得できればそれでよかった。
乾いた大地に水が浸み込むように素直に受け容れると、その場で救われ楽になれました。
著作者 : Yasin Hassan – ياسين حسن
この手の話は人生順風満帆な人には理解し難いかもしれないですね。
スピリチュアリズムとは宗教ではなく、生きていくうえで見舞われる艱難辛苦に前向きな意味を見出し捉え直す、人生哲学といえるでしょう。
私の中では忘れては悩み、行きつ戻りつ立ち返る場所としてスピリチュアリズムがあります。
もしも天災や人災に遭って家族を失い、孤独で胸が張り裂けそうな朝を迎えても、魂は永遠であること、そして自ら望んだカリキュラムだということを知れば恐れはなくなります。
最後に拙(つたな)い文章ではありますが、このコラムに書かれた内容が抵抗なく使えそうだと思えたなら、生きるのが辛い時こそ思い出し、言葉にすがって救われてほしいです。